【原田マハ】風神雷神 Juppiter, Aeolus(上)俵屋宗達、ローマに向かう!2021-05-08)の続きです。
あら? もう1ヶ月近く空いてしまったのね…
やっと読了、そして感想を書く時間ができたので遅まきながらUP。
上巻では、俵屋宗達が、織田信長に認められ、ローマに送り出されるまでの顛末が描かれていました。
天正遣欧少年使節のキリシタン少年たちとの出会い、ともにローマを目指し、長崎を就航。
下巻は、1583年(天正11年)、遣欧使節一行の船はインドのゴア(ポルトガル領インドの首府。インドの西海岸)に到着のところから始まります。
すでに、長崎港を出港して1年9ヶ月。まだアジア圏を出ていない~~~orz
少年たちは一路、ローマを目指す!
少年たちの心の師であり、宗達は父親とも慕っていたパードレのヴァリニャーノがイエズス会の都合でゴアにとどまることに。
1583年12月末 ロドリゲス神父らとともにゴアを出港。
1584年8月、ポルトガル・リスボンに上陸、
同年10月、スペインの首都・マドリードに到着。フェリペ二世に謁見。
フェリペ二世に見せた風神雷神が描かれた扇…。
悪魔か?と問われユピテルとアイオロス(ギリシャ神話に登場する、風の神、雷の神)と説明して その場を切り抜け、薄汚れた扇など要らぬという王に、扇以外に命しか差し出すものはない、と言い切って 宗達の勇敢さが王の心を動かしたのでした。
1985年、ピサ、フィレンツエを歴訪
どの街でも「高貴なる東洋の王子たち」と「勇敢な絵師」ともてはやされて。
フィレンツェのメディチ家の礼拝堂で「キリストの洗礼」の絵を観た宗達と原マルティノ。
ロレンツォ・デ・メディチは、「キリストの洗礼」を見て、左下の天使の絵を描いた者には「天賦の才能がある」と見抜きました。その絵を描いたのは、当時まだ名もなき
ヴェロッキオの弟子、レオナルド・ダ・ヴィンチ!
ピサで見た、アーニョロ・ブロンズィーノの肖像画とともに、宗達の心を震わせたのですっ!
目に見えるものを紙や布に写し取るだけではなく、絵師の思いがこめられた絵を描くのだ、との思いを強くしていく宗達でした。
1585年3月22日 ついにローマに到着。
使節団のジュリアンは、病で高熱…ローマ教皇への謁見は3人の少年のみになったことで、聖書の「東方より来る三人の賢者」に見立てられ、街中大歓迎♪
システィーナ礼拝堂で、ついに、ついに謁見のときが来た!
絵師として宗達も随行し、そこで見たものは!!
数々のキリスト教にまつわるフレスコ画。
天井一面に描かれた壁画に、圧倒され呆然と立ち尽くす少年たち…
長崎を出向した時の少年たちは、下が12歳、最年長14歳。
まだ声変わりもしていなかった子供の彼らが、苦難の航海と長旅を経て、イタリア語、ラテン語、ポルトガル語を習得しつつ、ローマ教皇との謁見を心の支えにローマにたどり着く・・
現代でも言葉の習得や船旅は大変なことなのに、風まかせの航海、赤道直下の航行、慣れない慣習、様々な困難を経て、少年たちが本当にローマ教皇に謁見したのだ、と思うと奇跡としか思えないです。
若い内に海外を見ておくことは必要だな、と思っています。
最近、修学旅行先に海外を選ぶ学校も多いです。コロナ下では当分無理でしょうけど。
テレビやネットで、海外のことを身近に知れるようになった今でも、実際にその地に身を置いてみると ただ知識があるのとは違う高揚感があるのに
多感な年齢の少年たちが、書物だけで知っていた 文化も言葉も顔貌もぜんぜん違う遠い遠い国へ行った時の衝撃たるや!!
あの当時、彼らの見聞、経験は貴重なものでした。
だからこそ、帰国してから、彼らは、活躍すべきだったのに、1590年長崎に帰港したときには、伴天連追放令が発布されて3年が経っていました…って悲しすぎます。
出発のときには、天下人たる織田信長から「洛中洛外図屏風」をローマ教皇に献上するという命を賜って意気揚々と船出したにも関わらず、帰ってみたら、世の中は一変、追放される身分に。
彼らの絶望や悲嘆を思うと胸が痛くなります。
作品の肝は、ミケランジェロ・メリージダ・カラヴァッジョとの出会い
いよいよ長旅も終わり、出港日も近づいてきたのに、宗達は、このままじゃ帰れない!といいます。
イタリア随一の絵を見たい…宗達の願いをミラノ5日目にロドリゲス神父が叶えてくれました。
マルティノと二人は他の皆と別行動でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へと連れて行ってくれました。
礼拝堂の裏側の、厨房を抜けて出たところは、食堂。突き当りの殺風景な壁の前まで案内され、振り向いてください、の声で振り向くと、壁一面に、あの
キリストの「最後の晩餐」の絵が!!
そこへスケッチブックを手にした一人の少年が。
両親と死別し、兄弟たちとも別れ、ひとりペテルツァーノ工房に入ったものの、下っ端は、絵筆も握らせてもらえず、喧嘩をして罰として工房への出入り禁止になった少年。
彼こそが、ミケランジェロ・メリージダ・カラヴァッジョ。
カラヴァッジョ村のミケランジェロ。
若き絵師の出会いがここに。そして二人はいつかほんものの絵師になって再会を誓います。
宗達は、父からもらった大切な、ユピテル、アイオロス(風神雷神)の扇をミケランジェロに贈りました。
翌日、ソウタツとマルティノに渡してほしい、と少年が置いていったという包みを開けると。。
精緻に描かれた、ユピテルとアイオロスの絵…
カラヴァッジョの絵に触発されて、自分も描かねば、と宗達もイタリアを発つまでにと横長の画布に筆を走らせました。
そして、最後の仕事。
マルティノとともに ペテルツァーノの工房を訪ね、ミケランジェロの描いたユピテル・アイオロスの絵を見せ、才ある少年をこの工房で鍛錬してやって欲しい、と頼みに行きました。
1585年8月8日ジェノヴァを出発する。
マルティノは荷造りをして、最後に分厚い紙の束=「旅の日記」を置いた時、宗達がカラヴァッジョから贈られたユピテルとアイオロスの絵を一緒に行李に入れてほしいと言う。
日記の上に、そっとユピテルとアイオロスの絵を載せました。
これが、上巻でマカオ博物館のレイモンド・ウォンに見せられた、原マルティノの日記とユピテルとアイオロスの絵なのですね。
マルティノ視点で書かれた長い長い旅の日記が、この作品の核となっています。
史実とフィクションが織りなす壮大な物語
謎が多い俵屋宗達だけに、大胆に創りこめた作品、と上巻の感想に書きました。
実際、俵屋宗達が、ローマに行った、という記録はありません。
天正遣欧少年使節の中に、4人のキリシタン少年の他に、織田信長から印刷技術を習得してくるように、との命もあったので、印刷技術習得要員の日本人少年が二人随行しています、
ひとりは、コンスタンチノ・ドラードと名乗る少年。
1590年、グーテンベルク式活版印刷機を持って帰国した。
また、帰国後はアレッサンドロ・ヴァリニャーノの秘書を務めたが、江戸時代の禁教令によりマカオへ退去した。
コンスタンチノ・ドラード Wikipediaより
…と、わかっているのですが、もうひとりの少年・アグスチーノの方は不詳。
宗達は、イタリア名、アゴスティーノと名乗ったことになっているので、この少年だった、という設定にされたのでしょうか?
かの織田信長が、「洛中洛外図屏風」をローマ教皇に献上した、というのは史実だった、というのも私には驚きでした。
430年以上も前に、遠く離れたヨーロッパの異教のトップに屏風を贈ろうという発想がすごい!流石織田信長。
この作品を読んで、織田信長にも興味が湧きました^^
狩野永徳の描いた絵は1585年3月、当時の法王グレゴリウス13世に届けられ、同92年7月の時点で存在したことが骨とう収集家の書簡と素描などにより確認された。
2007年2月10日毎日新聞
夢物語ではなく、確かに少年たちは、命を賭して海を渡り、教皇に謁見したのがすごいです。
風神雷神が、赤鬼青鬼ではなところから この作品を想起された??
俵屋宗達の風神雷神が、ギリシャ神話のユピテルとアイオロスと仮定して、宗達はヨーロッパで 西洋の絵画を見た影響でこの作風になった。
天正遣欧少年使節とともに海を渡り、ヨーロッパの宗教画をみてきた宗達だからこそ描けたのだ、というドラマなのかも??
最後の辺りは、涙、涙で、胸がつまります。
長い長い旅路を、この作品とともに歩んできた今、本を閉じるのが惜しい。
もっともっと続いて欲しいぐらい 興味深く、感動的な作品でした。
ちょっとロスになりそうな、「風神雷神」、お薦めです♪
京都・建仁寺にある風神雷神図屏風のレプリカ。本物は京都国立博物館に寄託。
(2021年3月20日、同年4月5日訪問・撮影)