ブロ友さんお薦めの原田マハさんの作品。
上下2巻もので、読みきれるのかしら?と思いましたが、面白くて、どんどんページが進みました。
美術(アート)という名のタイムカプセルがいま、開かれるーー。
戦国日本とルネサンス・イタリア
海を越え、時代を超えて紡がれる奇跡の物語。
「風神雷神図屏風」を軸に繰り広げられるアート・フィクション。
本の帯より
美術と言う名のタイムカプセルとは?
導入部分は、現代。
京都国立博物館研究員の望月彩が博物館の講堂で、「俵屋宗達『風神雷神図屏風』をめぐる解釈」について講演を行った直後、彩にコンタクトを取ってくる一人の外国人がいました。
マカオ博物館 学芸員 レイモンド・ウォン
彼に導かれるまま、マカオに向かい、そこで見たものは…
旧ポルトガル領 マカオにある、聖ポール天主堂は、16世紀末~17世紀初頭にイエズス会の会士が造った教会ですが、1835年の台風による火災でファザードを残し消失してしまいました。
(2015年5月2日訪問・撮影)
1990年の遺構発掘調査で巡察師ヴァリニャーノの遺骨のほか、迫害から逃れた日本人信徒の遺骨も発見されたとか。
マカオ博物館で、レイモンドが彩に見せた「タイムカプセル」は…
ひとつの畳箱(たとうばこ)。
中には、油絵のユピテル、アイオロス つまり風神雷神図。
その風神雷神図をそっと持ち上げると、紙の束が現れました。
ユピテルアイオロス ウェラ・ナラティオ
ラテン語で、意味は「風神雷神 真実の物語」
作者の名前は…FARA MARTINO(原マルティノ)。
遣欧少年使節の一人で、1614年のキリシタン追放令によりマカオに逃れた人物。
表紙の下の紙には縦書きの日本語の文字…そして二枚目には「俵屋宗達」の文字が」!!
プロローグで、ガッシと心を鷲掴みにされ、俵屋宗達の人生を追体験する旅に、私もでることになりました。
謎が多い俵屋宗達だけに、大胆に創りこめた作品
「宗達は尾形光琳と並び称せられる近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べその生涯には不明な点が多い。」とWikipediaにあります。
それだけに、書き手は、自由に、思う所を描き込めます。
織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、宣教師ヴァリニャーノとの旅路…
天才絵師・俵屋宗達がイタリア・ルネサンスを体験する!?
アートに満ちた壮大な冒険物語。
本の帯より
あまりに自然な流れで、本当にそんなことがあったのか?と思わされます。
織田信長への謁見、「なにか見たこともない珍しきものを描け」との命で、御前で絵を描くことになった、扇屋の息子 俵屋伊三郎。
真っ白の紙に描くと思っていた伊三郎(当時12歳!!)の前に運ばれてきたのは、なんと、黒い杉板。
ここに黒い墨で描いても絵が見えません。
伊三郎は、機転を利かせて、白い象を塗りつぶし、輪郭など、通常線で描く所を杉板の黒い部分を塗り残すことで表現したのです。
いたく感動した信長は、褒美を取らせます、「宗達と名乗るがよい」と。
この時、京の扇屋、俵屋の息子・伊三郎は、俵屋宗達になったのです。
この逸話は、著者の創作かしら^^
ここの場面は伊三郎の心の声と、白象を描く様子が活写され、胸が熱くなりました。
杉戸に描かれた白象の絵は現存し、京都・三十三間堂近くの養源院で観ることが出来ます♪
俵屋宗達の父は、この才能を活かせないかと狩野派に入門を希望するも、門前払い。
それがある日、向こうから迎えが来ます。
信長様から、「洛中洛外図」制作にあたり、俵屋宗達に手伝ってもらうように、との命が下った、と。
六曲一双の屏風に、都の風物、生活を細かく写し込むのは並大抵ではありません。
宗達の技量を知る信長は、狩野永徳へ依頼するにあたり「宗達を使え」と指示をだします。
卓越した技量を持つ絵師・狩野永徳との出会いで、宗達の絵師への思いが奮い立たされたのです。
織田信長は、懐柔したい相手に、洛中洛外図を贈っていたのですが、壮大な野望を持つ信長は、日本統一の次は、世界の中心ローマを攻略することで ←本当か?w
ローマ教皇に贈るための「洛中洛外図」の制作依頼だったのです。
洛中洛外図の制作する件は、こうやって描いたのか!と興味津々で読みました。
屏風サイズの大きい絵の描き方、平行に線を描く方法、微に入り細に穿った作業の様子、目の前で繰り広げられているように詳細に描かれ、時間が立つのも忘れて読みました。
珍しいものを見、それを紙に写し取りたい宗達と、ローマ教皇とコンタクトを取りたい信長。
信長は、宗達に、宣教師と共にローマに渡り、ローマ教皇に謁見し、洛中洛外図を献上するように命じたのでした。
…と、この一連の流れもフィクションでも 真実味があって引き込まれました!!^^
天正遣欧少年使節との出会い
1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。
天正遣欧少年使節Wikipediaより引用
小説「風神雷神」では、この少年使節に、4名の少年と同世代だった宗達も同行したことになっています。^^
夜更け、原マルティノが月を見上げている時に、京の都からパードレ(神職者)のヴァリニャーノと共にやってきた宗達と出会いました。
名前の宗達は、かの天下人・織田信長に賜ったといい、京からはキリシタンが神とも崇めている宣教師ヴァリニャーノと共に来た、というではないですか…。
このホラ吹きめ!と腹立たしく思っていたマルティノ(←洗礼名)。
翌日、ヴァリニャーノが セミナリオ(神学校)に連れてきたのは…宗達でした。
大名の名代で、自意識が強い少年らは見下しますが…
皆の前に大きな紙を広げて さらさらと柳や鷺の絵を描く様子に、皆あっけに取られ言葉もでません。
前夜出会って、快く思っていなかった原マルティノの心が大きく動かされていきます。
もう、涙、涙の場面です。
斯くして、イタリア語、ラテン語を話し、敬虔で優秀なキリシタン少年4名と、活版印刷を学び、ローマ教皇に謁見し、ローマの珍しきものを描きとってくるようにという信長の命を受けた宗達が海を渡ります。
1582年2月20日、長崎港を出発。ここまで第一章。1冊の約8割のページ。
1584年8月、就航から2年半経過。ここからが第二章です。
帆に赤いクルスを描いたナウ船(南蛮の大型帆船)で、マカオまで17日、ここで、10ヶ月もの間、風待ち。
動力を使わない帆船は、風が頼りですものね。
12月、ひと月かけてマラッカへ。再び風待ちをし ゴアを経由、モザンビーク、喜望峰、セントヘレナ島を経由しポルトガルのリスボンへ。
ポルトガルを横切り、スペイン、グアダルーペ、トレド、マドリード、アルカラ、と東進、ベルモンテ、ムルシア。
アリカンテ港からマジョルカ島に立ち寄りながら地中海を航海。
リヴォルノ港(トスカーナ大公国)から、ピサ、フィレンツェ、シエナからローマ教皇領へ。
あぁ、気の遠くなるような道のりです。
日本からローマまで、早くて3年の歳月がかかるとされていたそうです。
後で、地図帳で調べてみよう~♪
赤道直下の暑さや、時化の船酔い、様々な苦難を乗せて、宗達はじめ 少年たちの夢を乗せて、船は一路ポルトガルへ。
下巻に続きます。
京都・建仁寺にある風神雷神図屏風のレプリカ。本物は京都国立博物館に寄託。
(2021年3月20日、同年4月5日訪問・撮影)