⚠️ 基本ネタバレしております。ご注意ください。

アントワネット激動の人生の最期を歴史家が描く「マリー・アントワネットの最期の日々」

マリー・アントワネット、と言う名前は、だれしも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

フランス、ルイ16世の王妃、フランス革命で断頭台に露と消えた女性。

 

その数奇な運命故に、古くから小説、映画、ミュージカル、漫画、歌劇の主人公や登場人物として描かれてきました。

 

フランス革命を描く際に必要不可欠な人物です。

 

6月26日、パリ旅行の最終日、マリー・アントワネットが最期の日々を過ごしたコンシェルジュリーを訪れました。

 

その時以来、一女性としてのマリー・アントワネットの人生がすごく気になっていました。

2024年6月26日 管理人撮影

 

1ヶ月後の7月26日、パリ五輪2024 開会式で

マリー・アントワネットが最期の日々を過ごしたコンシェルジュリーでアントワネットが生首を持って歌う演出が衝撃的でした…

 

アントワネットの死後230年が経っても、まだフランスは彼女を蹂躙し続けていました。

 

本の内容に触れる前に、出版社(原書房)にちょっといいたい!!

『マリー・アントワネットの最期の日々』上下巻の2巻ものです。

 

第一幕 牢獄

第二幕 外国女

第三幕 被告人

第四幕 死の騎士

エピローグ

あとがき

 

【巻末】

図版解説 

参考資料

謝辞

人名索引 (上巻・下巻)12ページ

*原注(上巻・下巻) 72ページ

 

上下に分かれるなら 原注も上下巻に分ければいいのに、下巻にまとめて載せているのでとても使い勝手が悪いです。

 

普通、章の終わりか巻末に載っていることが多いのに、なんでこうなったんでしょう。

運命に翻弄されたマリー・アントワネット

 


コンシェルジュリーを訪れたとき、同行の家族はみんな、マリー・アントワネットは悪い王妃だよね、と口を揃えていました。

 

うん…確かにそういう側面もあったけど…。

 

「パンがなければお菓子を食べればいいわ」と言った、のエピソードがあまりにも有名で、悪い女列伝に名を連ねるマリー。

 

「パンがなければ〜」の言葉は、マリー・アントワネットが生まれる前から、どこかの高貴な夫人が言った言葉として広く使われていました。

 

マリー・アントワネットが言ったことにされて憎まれていますが…。

 

貧困にあえいでいたフランスの民衆が、贅沢に遊び暮らしをしていた王侯貴族を憎むのは当然の結果。

 

フランスの民衆の怒りの矛先がマリーに向けられ、

最大級の苦しみを与えて殺そうという、悪意が満ちていました。

侮辱、裏切り、嘘のでっち上げによる求刑。

 

マリーの死刑ありきの革命裁判。

 

検察官は、些細なことでも死刑を求刑することで恐れられていたフーキエ=タンヴィル。

 

裁判所はあっても、公平性もなく機能していたとは言い難い状況でした。

 

恐怖政治下では、自分を守るために平気で嘘をつき、他人を陥れます。

 

マリー・アントワネットは、かつて目をかけてあげた人物が自分を糾弾する側にいるのをみてどんな気持ちだったか、考えただけで胸が締め付けられます。

 

マリーが苦しんで死んでいくことを望んでいた民衆の中には、ギロチンで簡単に死んだのを残念がり

 

両手両足を馬に縛り付けて八つ裂きの刑にしたかった…

細かく切り刻んで犬に食べさせたかった…

 

マリー・アントワネットの命がひとつしかないことを残念がった人もいたそうです。

 

祖国の外交の道具になった14歳の少女

もともと、フランスとオーストリアはアルザス・ロレーヌ地方を巡って対立していました。

ルイ16世とマリーの結婚は和睦を結ぶための政略結婚だった、というのが不幸の始まりです。

 

末娘(第16子)をフランスへ嫁がせることにマリア・テレジアも責任を感じ、手紙でアドバイスを送っています。

 

オーストリアからフランスに嫁ぐさいに糸一本オーストリアのものを持ち込んではいけない、と

ライン川の中洲で下着から全てをフランスのものに替えた、と言う話は有名です。(『ベルサイユのばら』でも出てきます)

 

まだ中学生の年齢でフランス語もままならないマリーですが、美しく輝いていたので、結婚式は祝福で満たされていました。

 

それなのに、革命が起きると、オーストリアのメス狼、などと呼ばれ、

祖国オーストリアへ送金しているのでは、とあらぬ嫌疑をかけられました。

 

誇り高いマリーは、

ドイツ人に生まれたことを誇りに思う、と友人宛の手紙に書いています。

「逆境が私の力も勇気も弱らせることはないので安心してください」(出典:上巻P71 )

 

著者は歴史学者故に多くの文献から事実を抽出しています。

事細かな証言内容や、文献を紐解いて書かれたであろう内容でした。

裁判は、マリーの精神を弱らせるためにやっているかのごとき内容で、読むのは苦しいです。

 

外交革命により、かつての敵だったフランスとオーストリアが同盟関係になりました。

マリーは、両国がより強固な関係を築くための政略結婚の犠牲になった一面もあったと思います。

 

オーストリア女がフランスの財産を食いつぶした、と言われていたので
もし、マリーがフランス人だったらまた違った結果になっていたのかも…

 

ルイ14世が豪奢な宮殿を建て、派手な生活を送っていましたし、戦争に明け暮れて財政はすでに傾き始めていたから

マリー・アントワネットがすべて悪いわけでもなかったのに、と同情してしまいます。

 

上巻の口絵は「マリー・アントワネットの裁判」(ピエール・ブイヨン作)。

 

裁判の場に民衆が詰めかけていますが、マリー・アントワネットは堂々とした姿です。

 

下巻ではマリーの最期の日が詳しく描かれています

時系列に、何時に何をしたかが詳しく書かれています。

 

10月16日

朝の4時、法廷の民衆の前から立ち去ったマリーは、義妹と子どもたちに手紙を書きました。

 

6時、手紙を書き終えたマリーに、

漫画『ベルサイユのばら』のワンシーンにあるように、ロザリーがスープを勧めます。

喉を通らず二口、三口。

 

その後、告解の時間。

 

8時には、白い服に着替えました。

その際、血のついた下着がベッドの下に隠していたそうです。

彼女は、子宮がんを患っていた、とネットで知りました。

 

10時 後ろ手に縛られたマリーは、独房を出て

最期の76日を過ごしたコンシェルジュリーからギロチンのあるコンコルド広場まで「荷馬車」に「後ろ向き」に乗せられ揺られていきます。

これはマリーに屈辱を与えるため。

 

わざとゆっくりと進み、民衆のヤジや怒号を聞かせようともしましたが

凛として、堂々とした王妃は、顔色一つ変えなかったそうです。

 

12時過ぎ マリーは断頭台の露と消えました。

激動の人生に幕をおろしました。

37歳。38歳の誕生日の17日前のことでした。

 

最終章、死の騎士

第四幕のタイトルにもなっているLéon Bloy著『La Chevalière de la mort(死の騎士)』の一節に、

 

「彼女は切り落とされた自分の頭をひろいあげ、歩きはじめる、そしてたったひとり君臨しはじめる。」

 

殉教者、サン・ドニの逸話をなぞらえています。

 

この「切り落とされた首を持つマリー・アントワネット」が、オリンピックの開会式で再現されたのでしょう。

 

フランスに嫁いだ14歳から断頭台で散った37歳まで激動の22 年の最期の濃厚な1日を読みました。

 

 

参加しています、クリックしていただけたら嬉しいです♪

     ↓